烏枢沙摩の力や火蜥蜴の炎をもってしても不浄王の増殖の速さの前に進軍はじりじりとしか進まず、陣頭指揮を取っている八百造は己の心が焦っているのを自覚する。
明陀宗が百五十年封印してきたものの凄まじさ、現状それに対する手立てが不足している自分たちの無力さ、戦況が悪化しこの均衡が崩れたらという不安、それらはきっとこの場の祓魔師全員が大なり小なり感じていることだろう。
けれどももう一つ、八百造の心を大きく占めている焦り。
すなわち、勝呂達磨の安否。
あのとき出張所で蝮の報告を聞き、八百造は全てを理解した。達磨の十五年の意味を、覚悟を、彼が一人で抱えていたものを理解した。
一生をかけて達磨を信じ、達磨を守り、達磨を見てきた八百造にとって、彼を理解することは呼吸と同じくらい自然にできることだった。けれども、唯一、座主が抱える秘密だけは、達磨が頑なに隠し続けた。その1ピースだけが、八百造には足りなかった。だが今夜、八百造はその最後のピースを手に入れた。
だからこそ、どうか、と願う。
どうか、御無事で。
聞きたいことが山程あるのだ。
伝えたいことが山程あるのだ。
どうか。
所長、と部下の一人が駆け寄って耳打ちをする。和尚が、と呟くと相手は頷く。虎屋に残っていたはずの廉造と子猫丸が合流したのはつい先程のことだった。竜士が達磨から伽樓羅を受け継ぎ不浄王の中心へ向かったという知らせは、明陀宗にさらに動揺を与えた。お前ら何のためについとったんや!と憤る柔造と、そんな兄に噛み付いた廉造を抑え、八百造は周りに指示を出していった。幾人かを子どもたちが説明する場所へ向かわせる。限りある戦力を割くことを惜しむ気持ちなど、もはや八百造にはなかった。
そして今、八百造のもとに達磨が見つかったという知らせが届く。
生きておられた。
安堵とともに、八百造は御仏の加護に感謝した。今すぐにでも達磨に会いたい。直接無事を確かめたい。けれども、僧正筆頭として、京都出張所所長としての使命感が八百造の足を縛り付けている。
「行きなはれ」
懊悩する八百造の背中を、不意に叩く者がいた。蟒だった。
「ここの指揮は私がする。お前さんは和尚の元へ行きなはれ」
「蟒、お前……」
「私は、今はあの方に顔向けできん……」
伏せられた視線の先に娘の姿を思い浮かべているのであろう蟒の言葉に、八百造は何も返せなかった。ただ、恩に着るで、と小さく呟いた。
なんや走れるやないか、と頭のどこかで冷静な自分が言っている。つい先程まで杖をつかねば立つことさえままならなかったというのに、白い担架に乗せられて運ばれてきたその人の姿を目にした途端、よろめきながらも駆け出していた。
「和尚!!」
担架が下ろされ地面に横たえられた達磨に駆け寄った。あまり動かさずに、と医工騎士が言うのも半分しか耳に届かない。その血に塗れた袈裟に、縋り付く。
「よく、御無事で……っ!」
声が震えた。
「八百造、」
血の気の失せた青白い顔で、達磨が言う。いつもと変わらない笑みを浮かべた顔で。
「心配かけて、ごめんなぁ」
「……っ! ア、アンタってお人は、ほんまに……!!」
視界が滲む。泣くのか。五十をとっくに越えた男が。息子たちや、部下の前で。この人の前で。
「八百造、私は……」
「ええんです。今は何も言わんどいてください。何も言わんで、ええんです…」
握り締めた墨染に、ぽたりと雫が落ちるのを見た。
[4回]
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