その日の朝、志摩は寝坊した。
同室の勝呂と子猫丸の姿は既にない。自分たちは早よ起きるくせに何で起こしてくれへんのやろ…、とぼやきながら慌てて支度をする。以前同様の文句を言ったときに「声かけてもお前起きひんやんか」と勝呂に返された記憶を、志摩は都合よく流した。ぼさぼさ頭のまま部屋を出た彼は、何となく違和感を覚えたが、深く考えることをせずに走り出した。
何とかチャイムと同時に教室に滑り込む。同級生の冷やかしに適当に応えながら席に着き、ほっと息をついた。さて、これから退屈な授業の時間の始まりである。志摩はいつもおざなりに教科書を開いておくだけだった。
数学だの物理だの、卒業してしまえば自分の将来には二度と関わることはないだろう。同じ立場の仲間たちで、それでも真面目に授業を受けていそうなのは、勝呂や子猫丸や奥村兄弟の弟辺りだ。
(坊は変態さんやからなぁ)
お前もうちょい真面目に勉強せぇよ、と苦言を呈した勝呂のしかめっ面を思い出しているうちに、授業は進んでいった。
「子猫さーん」
昼休みになって廊下に出たところで見つけた幼馴染に手を振った。
「志摩さん遅刻せえへんかった?」
「危ないとこやったけどなんとか。置いてくなんて殺生やわぁ」
「一応声はかけたんよ」
そんな会話をしながら連れ立って歩き出す。後は勝呂と合流してから購買へ向かうのが、揃う順番こそ違うときはあるものの、志摩たちの日常だった。
そのはずだった。
「志摩さん、どっち行きよるの」
「へ?」
勝呂の教室へ向かおうとした志摩を子猫丸が呼び止める。気づけば志摩と子猫丸の進行方向は廊下の分かれ道で違っている。志摩は勝呂の教室がある方へ。子猫丸は購買がある方へ。
「どっちて、坊迎えに行かんでええのん?」
それとも勝呂は今日の昼食を一緒にできないと言っていただろうか。自分は寝坊したから、子猫丸にだけ伝えていたのかもしれない。
そんな志摩の思考は子猫丸の言葉に否定される。
「誰か約束してはる人でもおるん? 坊さんて志摩さんの友達やろか」
「え、えぇー…、子猫さんらしくない冗談やわぁ。喧嘩でもしたん? めっずらし…」
冗談なのだと口に出したのは、自分に言い聞かせたかったからかもしれない。長い付き合いの子猫丸の表情が、冗談を言っているようにはとても見えなかったからだ。それこそなんの冗談や、と志摩は生唾を飲み込む。なんで、こんなにも嫌な予感しかしないのだろう。
けれども子猫丸は無常にも志摩に追い討ちをかけてくる。
「せやから、坊さんてどちらさん?」
ぞわりと肌が総毛だった。問いかける子猫丸の瞳に嘘や冗談の色はない。
(本気や。本気で子猫さん、坊のこと覚えてへん…)
記憶喪失、任務で受けた魔障の影響、そんな要因となりそうなものを思い浮かべるが、それよりもべったりと肌に付き纏うようなこの嫌な感じはなんなのだろう。まるで、まるで、
(一先ず、坊や…!)
「ちょ、志摩さん!?」
呼び止める子猫丸を置き去りにして、志摩は勝呂のクラスへと駆け出した。
「坊!」
急に飛び込んできた志摩に、教室で昼食を取っていた生徒たちの視線が何事かと集中した。それをぐるりと見渡して、求める姿がないことに焦燥感が募り、入り口の傍にたまたまいた生徒を捕まえて問い詰める。
「ちょお、勝呂竜士はおる!?」
「い、いや、いないけど…。ていうか、ウチのクラスにはそんな名前の奴…」
戸惑う生徒の言葉が上手く志摩の耳に届かない。耳鳴りがする。頭痛がする。
(何やこれ。何が起きとるん…?)
掴み上げていた生徒の襟首を離し、ふらりと廊下に出た。
足元がふらつく。頭が痛い。耳鳴りが止まらない。ふらふらと歩きながら、志摩は震える指先で携帯を取り出す。
携帯電話を操作するのに、こんなに緊張したのは今まで数えるほどしかなかった。そのいずれもが勝呂に絡んだときだった。けれどもこんなに絶望的な気持ちは初めてだった。
「なんで、ないねん…。消した覚えなんかないで…」
履歴の半分以上を占めていたはずの『坊』の表示が液晶画面のどこにも見えない。アドレス帳にも、メールボックスにも、どこにも。
それでもと縋るような思いで暗記していた勝呂の携帯番号をダイアルして、携帯を耳に押し当てた。ぎゅっと目を閉じる。そんな志摩の一縷の望みは『おかけになった電話番号は…』という機械音声にむなしく打ち砕かれた。
「なんでや…」
廊下の壁に凭れ掛かり、ずるずると志摩は座り込んだ。通りすがる生徒たちが怪訝そうな視線を向けるが、志摩がそれを気にする余裕はなかった。
今朝自室で感じた違和感の正体に気づいてしまった。何もなかったのだ。勝呂が使っていたはずの机や棚に、勉強家の彼が積み重ねた書籍やノートの類、私物、彼の存在を示す物、何ひとつ。
「どこに行ってしもたんや、坊…」
情けない声が出る。頭痛はどんどん酷くなる一方だった。
一体どうすれば人一人の痕跡をこんな風に消すことができるのだろうか。悪魔の仕業だとでもいうのだろうか。それとも。
(そんな筈は、ない)
否定しながらも、その考えが志摩の思考を支配する。
すなわち、勝呂竜士という人間は本当に存在していないということ。
(そんな筈ない。だって俺覚えとるもん、坊のこと…。坊がどんな顔で、どんな声で、どんな性格しとるか。坊が何を言ってたか。坊が何をしてたか。坊が、坊が、俺にとってどんなに大切な人か、覚えとる…)
思考の渦と頭痛に押し流されて、志摩の意識は暗転した。
「…ま。おい」
頭が痛い。起きたくない。
「志摩。朝やぞ」
起きたところであの人がどこにもいないのならば。
「…起きんかい、志摩!」
「あいったあああ!! ちょ、坊ひどい! ………て、坊!?」
頭を強く叩かれて飛び起きた。反射的に批難の言葉を吐き出して、それから志摩は自分を叩いた人物をまじまじと見つめた。
自分よりがっしりとした体格。
両耳を飾る複数のピアス。
メッシュの入った髪。
顎に生えた髭。
鋭い目つき。
勝呂竜士。
「坊や…」
呆然と呟いた志摩を訝しげに勝呂は見下ろす。
「まだ寝ぼけとるんか、おま」
「坊やぁぁぁっ!!」
急に跳ね起きた志摩から腰の辺りに抱きつかれ、バランスを崩した勝呂は志摩ごと後ろに倒れて尻餅をついた。怒鳴ろうとした勝呂だったが、志摩の様子が普段と違うように見えて押し黙った。そしてピンク色の後頭部にそっと手を置いて、静かに撫でた。
「………どないしたん」
「………ちょっと…おっかない夢見てしもうて」
「こないな時間まで寝とるからやろ」
「さすが坊。容赦ないわぁ」
くつくつと笑う気配がして、志摩が顔を上げる。見上げる志摩の表情が暗いものではなかったことに、勝呂は内心ほっと息を吐いた。
「ね、坊」
「なんや」
ごそごそと身を起こした志摩が、勝呂の目をじっと見つめる。吐息が届きそうな距離だった。
「俺を置いて、勝手にどっか行ったりせえへんでくださいね。おらんくならんでくださいね。そないなことになったら、きっと俺は気が狂うてしまう」
勝呂の両手に触れる志摩の指先が震えている。緊張からか瞬きを何度もしている。いつもふざけている志摩の両眼は真剣そのものだ。
(まるで、告白でもされとるみたいや…)
両手に汗が滲むのは志摩の雰囲気に当てられたからだと言い訳のように思いながら、勝呂はそっと頷いた。
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奥村兄弟に「勝呂? 誰だそれ」「京都から来たのは志摩君と三輪君の二人だけだったけど」って言わせたり、金造に「和尚には子どもおらへんやろ。せやから明陀は柔兄が継ぐことになっとるんやないか」って言わせたりしたかったんですけど、志摩が可哀相になってきたので削除。
うん、ほんとにこれ祝う気あるのかって言われても仕方ない。
[5回]
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